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2023-01-18
震災のあと(1)

そう 神戸の震災のあと、気分だけは「なんとかしなければ」と思った気がします。
あんまり震災の 報道の記憶がないのは 私自身は若い頃から、テレビが無い暮らしを割と気に入っていて、18歳以降、テレビを買ったことがないからです。
その時も 家にテレビはありませんでした。

震災の日、いつまでたっても 電車が来ないから、おかしいなあ?って思って、確か駅の近くの電気屋さんのテレビで ニュースを見たんです。
まだ 大阪市内の 会社や お店のの中身がグチャグチャです!みたいな 全然全貌のわからないニュースでした。倒壊した建物の下でたくさんの人が亡くなったこと、長田が燃えてしまったことがわかったのは だいぶあとでした。

しばらくすると、次から次へと電話がかかってきて、色々と様子が見えてきました。こちらからも安否確認の電話を沢山しました。学生時代の友達も、職場関係の人たちも、沢山阪神間にいたから、被害のひどそうな地域の子の無事を順次確認していく感じでした。
この頃はまだ ポケットベルがあるくらいで、携帯を持っている人は あまりいなかったように思います。同じくインターネットもほとんど普及していませんでした。「パソコン通信」をしている人がわずかにいましたけども、それはもう、マニアだけが愉しむものでした。

情報といえば、ラジオとテレビと新聞、そして 実際に被災地にいる人たちからの電話とか、被災地に行ってきた人からの実体験だけだったころのことです。
私の卒業した大学は阪神間にありましたから、退職した先生から「水が欲しい」という連絡が友人のところに来ました。

そう、大学とか、市民体育館まで行けば そこはもう ボランティアの拠点とか 避難所とかになっていましたから、食料もお水も十分ありました。
でも その先生からの電話は「家族が病気で、家を出られない、給水車も来てるのかどうかわからない」というものでした。
阪神間は おおむね 南側が平地で、北側は山です。
先生が住んでいたのは山側で 急な坂道があるあたりで、確かに高齢の方が歩くには キツい場所でした。
ということで みんなで手分けして、水を4リットルずつ、食パンをいっぱい背負って歩きました。何時間もかかったと思います。
電車もバスもないし、道路も壊れていましたから。

着いてみたら大笑いで、私たちが到着する少し前に 給水車が来て、食料も置いて行ったということで、重たい水を背負って行ったんだけれども、それはもう、無駄になった....んですよね。困った笑顔の先生も「ほかに困っている人がいるかもしれないから、よそへ持って行ってくれ」というし、再び 重い水を背負って 大学まで歩いてみましたが、大学にはそれこそ、「どうにかせねば」と思った人が置いて行った救援物資が山と積まれていて、
「あ、そうなのね....」という気まずさが残りました。

そんな経緯もあって、「食料を支援する」とか「炊き出しをする」とかは 自分の役割にはなりませんでした。住宅の支援や入浴支援なども 自衛隊の方が動いていて、自分の役割ではありませんでした。

ところが なんか 色々が動いて 私はその後3か月間走り回ることになりました。

生きててよかったね、ってそれだけでは すまない
何かどうしようもない 空気があったから。あのときは。



Edited by じゅんか 2023-01-18 13:49:21
Last Modified 2025-07-18 11:00:09





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