震災のあと(2)
何が大変だったかということも あまり覚えてはいないかも...。
ただ ボランティアで 何かする、ということは案外時間がかかるので
やけに忙しかったし
やけに移動しました。
私は大したスキルがなかったのですが、雑用は山のようにあったので、常に誰かと一緒に、何かを準備していたのですね。
言い出しっぺは 某大学の教授の方でした。
明るい、「こういうこと、できたらいいですよね〜〜〜」って次々に話をする、けれども この人は思いつくだけで一切何もしません。
それは全然悪気ではなく、そういう役目の人ではなかったです。
「じゃあ 誰誰に聞いてみましょうか〜〜」と実際に問題を解決するのがOさんでした。Oさんは 震災をきっかけに初めて会った人だったのですが、この人が 元々被災地のことも、大阪側の事情のことも分かっている人でした。
代表の教授は 次々に楽しいことを思いつくだけじゃなく 心配事も沢山思いつく人で、「これこれこういうことを....どうしましょうね...」と悩み続けます。
それをまた、Oさんが 「じゃあ こういう人に頼んでみます」「どこどこに可能かどうか聞きます」ってその場でどんどん確認と依頼をしていける方だったですね。発案の教授がいなかったら、物事は始まらなかったし、
実務のOさんがいなければ すべては絵空事で終わりそうでした。
そして 大体の段取りが終われば また教授のターンです。
また、他のメンバーで、報道関係の知り合いが沢山いる人がいて、各方面への連絡がまたたくまにつきました。
某大学の○○教授が発起人となり....とかで どんどん取材を受けたり、あいさつ回りをしたりしてくれます。これがありがたかったですね。「人と会う」「あいさつ回りをする」仕事は どんどん引き受けてくださり、広報はスムーズに進みました。
沢山の人に会ってあいさつ回りって 辛い人にとっては辛いです。
いつもにこやかでいてくださること、何十回と同じ質問をされても にこやかに答えることができること、とか メチャクチャ良かったです。
そのほか関わった方々もそれぞれ個性があり、役割があって、
人にはそれぞれ「お役割があるのだ」としみじみと実感しました。
それで 実務型のOさんは このとき 他にもたくさんの活動をされていました。お仕事もされていました。
他のメンバーもそうでした。
ミーティングは サクサクと進み、ミーティングをしながら 実際のタスクがどんどん進んでいく感じでした。
でね、このとき、ボランティアの人にいっぱーい会いましたけど、
ボランティア、やりすぎると大変でもありました。
もちろん被災した人も大変なんだけど、支援する側も バランスをとるのが大変でした。
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これ、色々思いかえすと、スムーズに色々が動いたのは運がよかっただけで、皆さんは 無理をしないで暮らして欲しいとも思います。
一生懸命になりすぎると 辛くなる人はいます。
なので、「救援する」というようなボランティアは長続きしない、ということをOさんは思っていました。(たぶん燃え尽きるから)
実際にOさんがメインで進めている活動は 私がかかわったこととは全く別にありました。住民の方が住民だけで運営できることを軌道にのせるまでを されていましたね。今も あの時に基盤ができた色々は、続いているんですよ。すごいことですよ。
だって 30年ちかくたっているんだから。
ともかく 私の震災ボランティア生活は せいぜい数か月で終わりました。
イベントを計画し、準備するのに、3か月くらい?実行に10日ほどかけて、後始末をして、それで終わりました。
今は どなたとも 縁がなくなってしまいましたが 自分の中に残ったことはありますね....。
Edited by じゅんか 2023-01-21 12:57:42
Last Modified 2023-11-08 11:24:16