意味を求めないで ただ眺める
先日から 頭のなかに
「浪のしたにも 都のさぶらふぞ」が浮かんでいた。
平家物語の一節である。
わたしは 『祇園精舎の....」だけは なんとか暗唱できるけれども
現代語訳ですら 「平家物語」を通読したことがない。
したがって このフレーズは偶然に知った。
マンガの片隅に そっと引用されていたからである。
壇ノ浦の戦いで 平家軍が完全に敗北した時に
二位の尼(平時子)が
「海の底にも 都がございますから」といって
7歳の安徳天皇を抱いたまま身投げする時の言葉である。
わたしは この一節を忘れることができない。
ググりつつ「平家物語 巻第十一 先帝身投」を読んだ。
ああ、うつくしい。
日本語はうつくしい。
私は古典を音読するのが好きだ。
意味はわからなくても 音がうつくしい。
できることなら これを覚えてつらつらと語ってみたい。
琵琶法師も知らないし、講談も知らないし、芝居も見たことはないし
謡曲なども知らないのだけれど
もしも 鑑賞する機会があったなら きっと私はハマるだろう。
文学だろうと絵本だろうと 「あらすじ」を説明するのが あまり好きではない。
私にとって 大事なのは 「意味」ではない。
おはなしを音として聞いた時の「感じ」がたまらない。
そういえば 先日 よっけが こっそりと 友達にアナログ版みつやんつうしんを見せていた。
彼にとっては 極力特徴を出さずに描いている幾人かのお友達が誰であるのか すぐにわかってゲラゲラ笑っている。
子どもというのは 大人とは違う視点を持っていて面白い。
「ああ、このマンガ歌になってるじゃん!」と彼は言った。
そう、それをわかってくれたのは 君が初めてだ。
私はマンガを描く時に、音読した時のリズムを想像しながら描いている。
変な話、オチではなくて
「何度も聞きたい音」が作りたくて作っているかもしれない。
現代人って とても忙しくて
すぐに結果が出ないことに焦りがちだと思う。もちろん自分を含めて。
でも、そういうのってつまらない。
意味がわからなくても ただ 今この瞬間を味わうことの積み重ねが日々のなりわいである。
今わたしは アナログ版みつやんつうしんのイメージが全く降りて来ないで ぼんやりしている。
創刊13年。創刊初期は 自分の考え方をわかって欲しくて書いた。
今読み返すと その下心が見えて 少し恥ずかしい。
さて、次回わたしを動かすモチベーションは 何になるだろう。
Edited by じゅんか 2012-11-16 09:50:01
Last Modified 2012-11-16 10:47:32