実家事務所の話/大濱さん(3)
参考記事
『完全敗訴から控訴審終了 長文』
姉のブログ/大濱さんという人1
姉のブログ/大濱さんという人2
さて 大濱浄竿さんという人が日本にいる間 どのような経歴だったか
また アメリカに行ってからどのような受賞歴をたどられたかということは 手元に資料がなく 私にはわかりません。
日本にいる経歴は 私の父親から聞いているものと 第三者から聞いた情報が一致していないので、正確なところはわかりません。
ただ あんなにすごい作品を作る人だったのに、日本では有名ではないのです。日本の美術界、工芸界で、師匠がいない大濱さんは不利だったのでは、と思っています。
ある日 我が家に茶人・堀宗凡さんがやってきました。
堀宗凡さんは 私の目から見ると大変アヴァンギャルドな茶人でした。
実家にお越しになったときに 私がたまたま家にいました。
この事務所が素晴らしいから、と見学され、写真をとるため、カメラマンを連れてこられたのです。
確か同行されたカメラマンは雑誌「家庭画報」のカメラマンをされてる、と聞かされた気がします。うろ覚えですけども。
宗凡先生は 「これは素晴らしい」とおっしゃり、実家の事務所に「仰天房」と名前を付けて、色紙を贈ってくださいました。
そしてほどなくして 大濱さんは渡米しました。
大人の話をきく限り、宗凡先生の推薦状を持って渡米されたとのことでした。
確か私は小学3年生になったばかりだったように思います。
父と一緒に 宗凡先生の下鴨にあったご自宅「玄路庵」のお月見のお茶会にお邪魔したことがあります。そして3年生ならこれをあげる....とお孫さんのお下がりの服をいただいたので覚えているのです。
宗凡先生は はたから見たら 真っ赤なルージュを引いて エレガントな帽子をかぶり、ドレスを着て散歩している(でもLGBTではない)奇人のように見えましたが、かつては裏千家宗家に出入りされていたこともあり、社交界では顔が広かったと聞いています。
その後 しばらくたって、アメリカから大濱さんの活躍が掲載された新聞や雑誌類と手紙が届きました。
どの紙面にも大きく取り上げられていました。
日本で認められなかった大濱さんは アメリカでは 大変な評価されるようになったのでした。
Edited by じゅんか 2017-03-04 14:19:45
Last Modified 2017-03-16 10:09:56