昭和新山物語を読む(3)
三松さんという人は 宮崎県出身の元お侍さんの息子なのだけれど、
紆余曲折あって お父さんが作った特定郵便局の局長をしていた。
学校へは行きたかったけれど、家業の都合で中学を中退している。
しかし、郵便局の業務の傍ら、絵を習うことを許されて 喜んで絵を習った。
噴火前後のあらゆる場所の膨大なスケッチを見ても、とても正確に 描いている。
昭和新山ができたころ、資材が最もない大戦末期だったから 観測はほとんど手描きのスケッチに頼らざるを得なかったのだけれど、これだけの画力がなければ難しかっただろう。
また 郵便局員として 地域内の全ての地形と事情をわかっていたことから 明治新山誕生のころ(明治43年)の頃、沢山やってきた学者の案内役をしており、その際に大森房吉先生をはじめ、火山学者の観測と調査方法をつぶさに見ており、講義に同席することも許されていた。
何を調査すべきなのかを 知らないうちに身につけていたということになる。
そして実際に有珠山が活動をはじめたとき、三松さんは 識者による対策委員会のメンバーだった。
そして 他に 有珠山の活動について詳しい人は 誰もいなかった。
結果、みんなから 頼りにされて動くことになる。
また、戦時中の郵便局長というのは 地域の情報が集まりやすいところであったようだ。壮瞥がいかに小さい村だったにせよ、全て自分の足で毎日調査するのは不可能である。配達員にお願いして変化した地盤を計測してもらったり、起こった出来事を聞き取っては記録に残した。
同様に近隣の地域の郵便局からも 起こった出来事を教えてもらってはまた記録に残した。
また、火山活動により、通信手段となる電話線がたびたび断線し、それを管理、修繕する郵便局は 一番先に 地盤の変化を知ることになった。
郵便局長としての仕事が沢山あり、それだけでも忙殺されていたのだから、学者の来村を乞うた。
明治新山誕生の際に知り合った全ての学者に 何度も電報を打つが 戦時中、他の調査で忙しい学者は動けない。「そのまま観測を続けろ」という意味の返信だけがやってくる。
そもそも はじめから新山ができるなどとは夢にも思っていない。
何が起こるかわからないのだから 確認することのできる事実を記録し続けた。
そんな中で 地熱があがる山を歩いて やけどをしたり、噴出する有毒ガスを吸い込んで気分が悪くなったり、噴石に当たりそうになったりを繰り返しながらも 2年間が過ぎた。
終戦とともに火山活動が終わり、後に残ったのは学者の先生方とやりとりをした膨大な観測記録と個人的につけていた日記 数限りない体験だった。
戦後落ちつくと 今度は学者の先生方や学生さんたちと沢山やりとりをし、また 本人も膨大な記録を ある程度わかりやすく、しかし 事実だけを淡々と示すまとめ方はないものかと考え、報告書を作った。
それがミマツダイヤグラムなどに代表される資料となった。
有名になったものは 彼の実績のほんの小さな部分なのかもしれない。
Edited by じゅんか 2013-08-27 09:47:05
Last Modified 2013-08-27 17:20:33